脳梗塞等の病状が悪化して重大な意識障害がある状況で書かれた自筆証書遺言の無効事例

生前に自筆で書かれた遺言が法律的に有効であるためには、遺言書を書いた人が、その当時「遺言能力」を有していたことが法律上必要です。

この「遺言能力」とは、遺言の内容をしっかり理解できるだけの知的判断能力です。

したがって、重度の認知症の老人の方が遺した遺言書では、この遺言能力を欠いた状態で書かれたものであるとして無効とされます。

また、認知症ではなかったとしても、重篤な病の治療・投薬等の影響で衰弱し、精神状態にも異常が生じていた場合なども、遺言能力がないと判断されることがあります

この遺言書の無効が争われるケースというのは、自筆証書遺言の場合が多いように感じられます。

それは、遺言を書く本人が重病で意識が朦朧としているような状況であっても、そこに付き添っていた人からの援助(もしくは圧力)で、遺言を書いた本人の力だけでなくとも、何とか遺言書としての形が作り上げてしまうことが不可能ではないからです。

このような、重篤な病の治療・投薬等の影響で衰弱し意識障害が生じていた状況で書かれた自筆証書遺言を無効としたケースとして、東京地裁平成15年9月29日の判決があります。

この裁判例のケースは、自筆証書遺言が作成されるまでの経緯について、以下のように詳細に認定して、遺言書を無効と判断しました。

なお、この件では、遺言書は、平成12年11月13日午後9時ないし10時ころから翌14日午前0時ころまでの間に、入院中の病室で、書面の下敷きを支えるなど被告(この遺言で全財産の贈与を受けるとされていた者)の補助を受けて作成されています。

まず、遺言者の病状の経緯については、裁判所は遺言作成時期の前後の病状を細かく認定しました。

・遺言者は、平成12年9月4日、急性心筋梗塞のため杏林大学医学部付属病院に入院したが、CCU(冠疾患集中治療室)において、重症致死性不整脈で7回に亘る心肺蘇生術を受けた。その後、平成12年9月26日に一般病棟へ移ったものの、肺炎、心不全、消化管疾患(胃潰瘍、偽膜性大腸炎、慢性腎不全)を併発し、低栄養、低酸素状態におかれていた。

・遺言者が緊急入院してからの病状は、平成12年9月26日から同年10月10日ころまでの2週間程度の間が最も良好な病状であり、その後は、徐々に病状が悪化し、同12年10月31日には、急激な病状の悪化が認められたこと。

・平成12年11月7日、担当のH医師と被告との間において、遺言者の病状について、尿路感染が様相を変えてきており真菌が検出されたこと、そのため抗真菌剤を使用するが、腎毒性があり腎臓に対する悪作用があること、腎機能障害が進行したこと、貧血が進行していること、消化管出血の可能性があること、心肺機能の保護のため輸血を必要としていること、栄養補給のために経管栄養を行うことなどの説明と了承がなされたこと。

・平成12年11月10日、腎機能が悪化傾向にあったこと、同月13日には、それまでの3日間、体温が上昇傾向にあったこと。

・同日、担当のH医師から被告に対し、先週から再び熱が出てきたこと、腎不全、貧血が進行しており輸血を行うこと、消化管出血の可能性があるため翌日第3内科の検診を受けて内視鏡検査を検討すること、そのために「禁食」にしたことなどが説明され、被告が回復の見込みを尋ねると「今後、長くなると思われます。」と回答したこと。

・翌11月14日、第3内科の検診がなされたが、遺言者の病状が悪く、検査ができなかったこと。

・平成12年11月14日午前0時、ナースコールがあり、遺言者が軽度の息苦しさを訴えたこと、午前1時45分、息苦しいと訴えたこと、医師の指示で午前1時45分から終日、酸素吸入(3リットル)をしたこと及び終日輸血がなされていたこと。

・平成12年11月15日、担当のH医師から被告に対して、遺言者の全身状態がかなり厳しいこと、心臓、腎臓、感染症がいずれもかなり難治であること、肺炎が起きる可能性があり、その場合突然呼吸状態が悪化し、生命の危険があると告知したこと。

・平成12年12月16日には、担当のH医師から被告に対して、当日の朝呼吸が非常に浅くなり、血液中の酸素、二酸化炭素の数値が著しく悪化したこと、気管内挿管を行い人工呼吸器管理としたこと、挿管直前に血圧低下があり昇圧剤の使用を開始したこと。

・同日、担当のH医師から被告及び原告X1に対して、この数日のうち、早ければ今日明日に急変して死亡する可能性があるとの告知がされたこと。

・年末からは、意識レベルが最良でも1ないし3の状態となり、同13年1月9日の脳波検査では、全汎性の電位低下があり重症な脳機能障害が認められ、財産の管理処分能力は無くなっていたことが認められる

そして、遺言書が作成された時(平成12年11月13日)の状況の不自然性についても以下のように認定しています。

・遺言者は、多数回に亘り遺言書の作成を試み、遺言書の内容は、被告に全財産を遺贈するという趣旨の単純な文面であるにも拘わらず、2時間ないし3時間もの長時間をかけて作成していること、書き損じたものが多数存在すること。

・遺言書の筆跡は、記載文字全部が激しく乱れていると認められること。

・遺言者の遺言書作成について、包括受遺者である被告が同席していたばかりではなく、下敷きを支えるなど遺言書作成の介助行為をしていること。

さらに、遺言書作成の動機が不自然であることなどについても、以下のように認定しています。

・遺言書の内容は、全財産を被告に遺贈するというものであり、従前Iが遺言者から聞いていた、原告らに二分の一ずつ相続させるという内容とは全く異なるものであり、遺言者がその将来の生活について最も心配していた原告X2のことについて何ら言及しておらず不自然であること。

・遺言により全財産を遺贈することになる被告に対して、遺言書作成の後、遺言者が原告X2の生活の介護を託すなど、原告X2を気遣うことなどはなかったこと。

これらの事情を総合考慮して、裁判所は、

「遺言者は、乙1及び乙2の遺言書作成時点において、脳梗塞、腎不全等の病状が悪化し重大な意識障害を来たしていたことが認められ、さらにその上、違法とまでいえるか否かは別として、遺言者は被告から遺言者死亡後の住居を確保するための遺言書を作成するように精神的圧力が加えられたことが推認されるものであり、遺言作成に必要な意思能力を有していたとはいえ」ない。

として、遺言書を無効と判断しました。

本件事例は、認知症で判断能力が衰えていたという事例ではないため、病状の悪化が判断能力にどの程度悪影響を及ぼしていたのか、という点について裁判所も慎重に判断しています。

また、その判断にあたっては、遺言書が作成された時の状況や、遺言者を取り巻く人間関係についても慎重に認定をして、最終的に遺言を無効と判断しています。

遺言書の無効を主張する場合、まずは判断能力の有無・程度が第一に検討されるところではありますが、それだけではなく、作成状況・動機なども併せて慎重に、かつ細かく主張をしていく必要があります。


2017年2月9日更新

公開日:2017年02月09日 更新日:2017年02月10日 監修 弁護士 北村 亮典 プロフィール 慶應義塾大学大学院法務研究科卒業。東京弁護士会所属、大江・田中・大宅法律事務所パートナー。 現在は、建築・不動産取引に関わる紛争解決(借地、賃貸管理、建築トラブル)、不動産が関係する相続問題、個人・法人の倒産処理に注力している。