ビル・店舗などの商業用施設の賃貸借契約においては、正式に賃貸借契約が締結される前の段階で、賃借人からの申込後に、賃貸人と賃借人との間で契約締結に向けて時間をかけて交渉が行われて契約締結に向けて準備を重ねるという段階を経ることがあります。
この間、賃貸人側では、賃借予定フロアの募集を止めて契約成立に備える等し、他方で、賃借人側では移転に向けての既存の賃借物件の解約手続を進める等、契約が成立することを前提としてそれぞれ準備を進めるということもあります。
しかし、このような場合に、正式に契約締結に至る前に、どちらかの都合で一方的に賃貸借契約締結交渉が打ち切られてしまった場合には、打ち切られた側から、それまでの準備に要していた期間に発生した費用等について、たとえ「契約締結前」であったとしても、相手に対して損害賠償請求ができないか、という問題が生じます。
この点が問題となったのが、東京高等裁判所平成20年1月31日判決の事例です。
この裁判例の事案は、賃借人からの申込書が差し入れられ、賃貸することを前提として賃貸人側も対象フロアを募集対象から外し、申し込みから契約に向けての交渉期間も4~5か月に及んでいて、契約の調印日まで決まっていたところ、その直前になって、賃借人候補者のグループ企業の会長の意向が変わり、契約締結に至らなかったという事案です。
この事案では、賃貸人側から、賃借人予定者側に対して、対象物件を募集対象から外した段階から契約拒絶時までの賃料予定額が損害であるとして裁判を起こしました。
この事案で、裁判所は、契約締結に向けての交渉過程を踏まえて、賃借人予定者側が契約成立前に一方的に契約交渉を打ち切ったことは、
「契約準備段階における信義則上の注意義務違反があり、これによって賃貸人に生じた損害を賠償する責任がある」
と判断しました。
また、損害額についても、基本内容について合意をした時から契約を拒絶した期間までについては、
「本件確保部分を他に賃貸する機会を喪失したことにより同額の収入を得られなかったというべき」
として、その間の賃料相当額を損害として賠償を認めました。
この事例は、賃借人側の事情で一方的に契約締結を拒絶したことについて損害賠償が認められたという事例ですが、逆に賃貸人側の事情で契約締結を拒絶した場合にも損害賠償が認められる場合もあります。
以上の通り、「契約が成立していない限り責任は負わない」ということにはなりませんので、賃貸借契約締結に向けて交渉が続いている場合に、一方的に契約を拒絶するという対応をする場合には、交渉の過程や契約交渉を打ち切ることについての正当な理由の有無などが無いかどうかなど、賠償責任を負わないように注意することが必要です。
【参考:東京高等裁判所平成20年1月31日判決】(1審被告:賃借人、1審原告:賃貸人)
1 賃借人予定者への損害賠償の可否について
「フィデリティ証券次いで1審被告は、前記のとおり、平成15年3月以来、本件建物の一部を目的とする賃貸借契約の締結に向けて1審原告と交渉を重ね、同年11月19日には1審原被告間で本件合意がされたが、本件合意時までに賃借目的部分が本件建物の15階・16階とされたほか、本件合意によって、契約の始期を当初予定日よりも1か月先送りし、1審原告が費用を負担してセキュリティ扉を設置する、敷金保全のための銀行保証をすることが取り決められ、また、これより先に1審被告あてに送付された契約書及び覚書類の案文により、本件建物に係る賃貸借契約の賃料・共益費、契約期間、保証金額等についての1審原告の具体的提案が判明するまでになり、当事者双方とも、本件合意によって賃貸借契約締結に当たっての重要な課題がクリアされたと考えていたというのである。そして、賃貸借契約の交渉の際に貸室申込書が提出された事案のうち約1割程度しか契約成立に至らないこと、ところが、1審被告は、同年9月30日の本件申込書上の期限を経過しても1審原告との間で本件建物に係る賃貸借契約成立に向けての交渉を重ね、この期間が通常の2か月ないし4か月を超えて5か月余に及んでいること、1審原告が既に本件確保部分を賃借人募集対象からはずす社内手続をとっており、そのことを1審被告が本件合意時までに承知していたことは、前記のとおりである。
これらの事実関係に照らすと、少なくとも平成15年11月19日の本件合意後においては、1審原告が本件建物に係る賃貸借契約が成立することについて強い期待を抱いたことには相当の理由があるというべきである。そして、1審原告が本件確保部分を賃借人募集対象からはずしていたのは、1審被告のそれまでの行為と交渉経過にかんがみ、本件建物に係る賃貸借契約が成立すると期待し、1審被告への賃貸目的物の引渡しを円滑にするためであったということができるが、この期待は無理からぬものということができるから、1審被告としては、信義則上、1審原告のこの期待を故なく侵害することがないように行動する義務があるというべきである。しかし、1審被告は、結局、賃貸借契約を締結せず、これを締結しなかったことについて正当な理由をうかがい知る証拠はない。したがって、1審被告には契約準備段階における信義則上の注意義務違反があり、これによって1審原告に生じた損害を賠償する責任があるということができる(最高裁第三小法廷平成19年2月27日判決裁判集民事232号345頁参照)。」
2 損害額について
「本件確保部分(1434.04坪)の平成15年11月20日(本件合意の翌日)から平成16年1月29日(賃貸借契約締結拒絶の日)までの間の約定予定賃料及び共益費の相当額(坪単価月額3万1000円)は、計算上、1億0234万2654円であると認めることができるから(平成15年11月分〔11日間〕1630万0254円、同年12月分4445万5240円、平成16年1月分〔29日間〕4158万7160円)、1審原告は、この期間について本件確保部分を他に賃貸する機会を喪失したことにより同額の収入を得られなかったというべきである。」
この記事は、2020年3月22日時点の情報に基づいて書かれています。
この記事の監修者
北村 亮典東京弁護士会所属
慶應義塾大学大学院法務研究科卒業。東京弁護士会所属、大江・田中・大宅法律事務所パートナー。 現在は、建築・不動産取引に関わる紛争解決(借地、賃貸管理、建築トラブル)、不動産が関係する相続問題、個人・法人の倒産処理に注力している。