弁護士コラム

賃借人は、物件から退去した後も、原状回復工事が完了するまでの間の賃料支払義務を負うか?

2020.05.30

【ビルオーナーからの質問】

当社が所有しているRC3階建てのビル1棟を法人に賃貸していました。

賃借人から契約解除の申し入れがあり、今年の1月末に退去したと言って建物の鍵の返却をしてきました。

しかし、この時点で原状回復工事が全く行われていなかったので、鍵の返却は拒絶し、その後3ヶ月程度かけて原状回復工事を行い、工事終了した今年の5月20日に鍵の返却を受けました。

 

こちらとしては、原状回復が終わった時点で明渡しがされたものと考え、5月20日までの賃料の支払いを請求したところ、賃借人から

「1月末までに退去して鍵も返そうとしたのだから、賃料の支払いも1月末までだ」

との主張がありました。

どちらの主張が正しいのでしょうか。

【説明】

2020年4月1日に施行された改正民法の621条により、賃貸借契約終了時における賃借人の原状回復義務が明確に規定されました。

民法621条

賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く。 以下この条において同じ。)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う。

ただし、この規定をみても分かる通り、

「賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う。」

と規定されているだけであり、本件で問題となっている

「賃借人が原状回復義務を履行するまでは、明渡し(契約の終了)は認められず、賃料支払義務を負うのか」

という点については明らかではありません。

そのため、「建物明渡義務と原状回復義務が別個の義務であるか」

が問題となるのです。

また、国土交通省が公表している賃貸住宅標準契約書の書式においても、

(明渡し)

第14条 乙は、本契約が終了する日までに(第10条の規定に基づき本契約が解除された場合にあっては、直ちに)、本物件を明け渡さなければならない。

2 乙は、前項の明渡しをするときには、明渡し日を事前に甲に通知しなければならない。

(明渡し時の原状回復)

第15条 乙は、通常の使用に伴い生じた本物件の損耗及び本物件の経年変化を除き、本物件を原状回復しなければならない。ただし、乙の責めに帰することができない事由により生じたものについては、原状回復を要しない。

2 甲及び乙は、本物件の明渡し時において、契約時に特約を定めた場合は当該特約を含め、別表第5の規定に基づき乙が行う原状回復の内容及び方法について協議するものとする。

と記載されており、明渡義務の履行と原状回復義務の履行の関係が明確ではありません。

この問題が争われたのが、東京地方裁判所平成20年3月10日判決であり、本件の事例は、この裁判例をモチーフにしたものです。

この問題については、以下のように、契約書において、原状回復をした後に退去すべき、と合意されていると解釈されるかどうかによって判断するのが裁判例の傾向です。

① 東京地方裁判所平成20年3月10日判決

 「原告が負担すべき原状回復工事については,これを実施した後に被告に本件建物を明け渡す趣旨の契約であると考えるのが相当である。したがって,本件賃貸借契約においては,原告は,原告が実施すべき原状回復工事を完了して本件建物を引き渡すまでは,本件建物の明渡しがあったものとはいえないというべきである。」

 

② 東京地裁平成22年10月29日判決

 「賃貸借契約においては,原状回復した上で賃貸目的物を返還することが必要であり」「本件においても,賃借人である被告は,原状回復義務が免除されたなど別段の合意や原状回復義務を否定すべき特段の事情が認められない限り,旧賃貸借契約を開始した時点の原状を回復して本件各土地を返還すべき義務があるというべきである。」

 

③ 東京地裁平成23年11月25日判決

 「本件賃貸借契約によれば,原告は,本件各建物を原状に復した上で明け渡すものとされており,また,本件各建物を明け渡す際には,本件事務所の1階~4階について,ハウスクリーニングを実施することとされている(甲2)。そうすると,被告は,本件各建物について,上記原状回復及びハウスクリーニングを実施した上で,本件各建物を明け渡さなければ,本件各建物を明け渡したことにならないものと解するのが相当である。」

「しかるに,上記認定のとおり,Bizexは,平成22年7月30日の時点において,本件事務所のハウスクリーニングが不十分であったり,本件各建物の原状回復工事が少なからぬ箇所で未了の状態であったというのであるから(詳細については,乙9,10),同日,被告に対し,本件各建物を明け渡したということはできないのであって,上記原状回復工事等を完了し,本件各建物の鍵を被告に全て返還した同年8月20日の時点で,本件各建物を明け渡したものと認められる。」

 

なお、仮に契約書で、建物明渡前に原状回復義務の履行が明確に規定されていない場合においても、東京高裁昭和60年7月25日判決が

「賃貸人が新たな賃貸借契約を締結するのに妨げとなるような重大な原状回復義務の違背が賃借人にある場合には、これを目的物返還義務(明渡義務)の不履行と同視」するものである

と判示している通り、新たな賃貸借の妨げとなる重大な原状回復義務の違背があれば、明渡義務を履行したことにはならないと解されると考えられます。

したがって、

・契約書で明渡し前の原状回復義務の履行が合意されていると解釈されるか

・仮に合意されていなかったとしても、原状回復工事をしなければ新たな賃貸借契約の締結の妨げとなるか

という点が重要となります。

なお、本件の事例では、もう一つの問題として、賃借人の退去後に行われた工事が、「原状回復工事だけではなく、原状回復工事ではなく経年劣化・通常損耗の部分のリニューアル工事も行われていた」ため、工事期間全てについて賃料支払義務を発生させるべきか、という点が問題となりました。

この点については、裁判所の裁量により、原状回復工事と、リニューアル工事の費用の割合で賃料相当額を按分してそれぞれに負担させるという結論を取っています。

参考:東京地方裁判所平成20年3月10日判決 判旨(原告:賃借人、被告:賃貸人)

「原告は,被告に対し,平成16年4月19日に同年8月末日をもって解除する旨の通知をした上,平成17年1月31日には本件建物からナイジェリア大使館を退去させ,その鍵を被告に引き渡して本件建物を明け渡そうとしたところ,被告が鍵の受取を拒絶したのであるから,原告は平成17年1月31日に本件建物を明け渡したというべきであり,平成17年2月1日以降の賃料等が発生するはずはないと主張している。」

「本件賃貸借契約(乙1号証)によれば,原告は,本件建物のうち原告において修理,改造,模様替えなどをした箇所については原告の負担で原状に回復した上で本件建物を被告に明け渡すとされているが(第11条),そうではない箇所については修理,清掃して原状に回復するとだけあり(第14条),このような一般の原状回復工事と明渡時期との先後関係については,特に明示の約定は存在していないことが認められる。

ただし,上記のような本件賃貸借契約における各条項の先後関係や内容の趣旨を考慮すれば,本件においては,原告が負担すべき原状回復工事については,これを実施した後に被告に本件建物を明け渡す趣旨の契約であると考えるのが相当である。したがって,本件賃貸借契約においては,原告は,原告が実施すべき原状回復工事を完了して本件建物を引き渡すまでは,本件建物の明渡があったものとはいえないというべきである。」

「そうすると,一般的には,原告は,原状回復工事が完了した平成17年5月20日までの間については,明渡義務の履行遅滞にあったと考えることができるはずである。しかし,本件では,甲1号証,乙8,18,43~49号証,原告代表者尋問の結果,E証人の証言,F証人の証言などを総合的に勘案すれば,この間に被告も被告が負担すべき部分の原状回復工事を実施していたことや,実際の作業の便宜のために原告のなすべき工事に先立って被告の工事をしたために原告において手待ちになっていた部分も少なくないことことが認められるから,そのような本件における特殊な事情を考慮するならば,原告,被告の双方によって原状回復工事がなされていた平成17年2月1日から同年5月20日までの期間について,原告の一方的な明渡義務の遅滞として賃料等相当損害金2077万7419円の支払義務を肯認するのは,当事者間の公平に反し相当ではないというべきである。」

「問題は,どのような基準でこれを原告と被告とに配分して負担させるのが相当かということになるが,全体を通して公平に分担させるべき基準は見あたらないので,民訴法248条の趣旨を類推適用して,当事者間の公平にかなう方法によって配分して負担させる他はないと考えられる。しかるに,原告が行った原状回復工事の内容(甲1号証)と被告が行った原状回復工事の内容(乙18号証)とを比較検討しても,それぞれの実施時期の相互関係は明らかではなく,また,原告が提出した工事工程表(甲6号証)によっても被告の原状回復工事との関係は不明であるから,当裁判所は,原告,被告,それぞれが負担すべき原状回復工事に要した費用の額に応じて,この間の賃料等相当損害金2077万7419円を案分するのが相当であると考える。」


この記事は2020年5月30日時点の情報に基づいて書かれています。

この記事の監修者

北村 亮典東京弁護士会所属

慶應義塾大学大学院法務研究科卒業。東京弁護士会所属、大江・田中・大宅法律事務所パートナー。 現在は、建築・不動産取引に関わる紛争解決(借地、賃貸管理、建築トラブル)、不動産が関係する相続問題、個人・法人の倒産処理に注力している。

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