
【相続人からの相談】
私には弟がいます。私は母との折り合いが悪く長年疎遠にしており、母の入院時も亡くなったときも、弟からの連絡に返信せず、葬儀にも参列しませんでした。
ところが、母が亡くなってまもなく、弟から「母の遺産分割について話し合いをしたい」と連絡がありました。遺産のことは気になっていたので、私はその日のうちに返信し、遺産の内容を確認する質問をしました。しかし弟からは「金額を説明するため、メールでのやり取りではこれ以上は報告すべきではない」という返事で、遺産の中身は教えてもらえませんでした。
約二週間後の話し合いの席で、弟は、「マンションの価格は1000万円にも満たない。処分しても諸経費を除けばほとんど残らない」と説明しました。私は不動産のことがよく分からないため説明を信じ、弟が母の遺産の全部を取得するという内容の遺産分割協議書に署名押印してしまいました。
ところが後になって、同じマンションの他の部屋が3500万円で売りに出されていたことを知りました。弟に「あのような遺産分割には応じられない」と伝えましたが、弟はマンションを第三者に代金2300万円で売却してしまいました。しかもその売買は、売却後も借りて住み続けるいわゆるリースバックでした。弟は不動産会社に勤めた経験があり、自分で登記申請書を作成するほど不動産に詳しい人物です。
一度署名押印してしまった遺産分割協議書は、もうくつがえすことはできないのでしょうか。
遺産分割協議と錯誤による取消し(民法95条)
遺産分割協議は、共同相続人全員の合意によって成立する法律行為ですので、意思表示に関する民法の規定が適用されます。したがって、錯誤による取消し(民法95条)や詐欺による取消し(民法96条)を主張することができます。
「この不動産にはほとんど価値がない」と誤信して協議に応じた場合は、法律行為の基礎とした事情についての認識が真実に反する錯誤(いわゆる基礎事情の錯誤。民法95条1項2号)にあたります。この類型の錯誤による取消しは、その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたときに限り、することができます(同条2項)。
なお、錯誤が表意者の重大な過失によるものであった場合には、原則として取消しはできません(同条3項)。もっとも、相手方が虚偽の説明によって錯誤を作り出したような場合には、表意者に重大な過失があるとはいいにくいでしょう。
錯誤による取消しがされると協議は初めから無効であったものとみなされます(民法121条)が、錯誤による取消しは善意でかつ過失がない第三者に対抗できません(民法95条4項)。そのため、不動産が既に第三者に売却されている場合には、その第三者から取り戻すのではなく、他の相続人に対する損害賠償請求などによる解決を図ることになります。
本件の主たる争点は
本件は、東京高等裁判所令和6年3月14日判決をモチーフにした事例です。
Xが弟Yに対し、母Aの遺産についてした遺産分割協議の無効確認を求めるとともに、Yが本件建物(マンション一室)を第三者に売却したことが不法行為にあたるとして、相続分二分の一に相当する1150万円の損害賠償を求めました。原審はいずれも認容し、Yが控訴しました。
控訴審では、
①Xが、Yから本件建物の価値について虚偽の説明を受け、これを信じて協議に合意したと認められるか
②Xの意思表示が錯誤により取り消されるか
③Xが錯誤に陥ったことについて重大な過失があるか
④Yによる売却が不法行為にあたるか
が争点となりました。
裁判所の判断
控訴審である東京高等裁判所は、次のように判断して控訴を棄却し、Xの請求を認容した原判決を維持しました。
本件建物の実際の価値
裁判所は、まず、本件建物の実際の価値について次のように述べました。
| この売却がリースバックであることを踏まえると、本来の価値よりもより低い値段で売却がされたものとうかがうことができるほか、同時期に売出しがされていた同一のマンション内の他の部屋の広告において表示されている金額(乙5)も併せ考慮すると、本件建物の価値は、少なくとも2300万円を下回るものではないということができる。 |
Xは虚偽の説明を信じて合意したか
裁判所は、Xが母と疎遠であった一方、死亡後まもなく協議の連絡に即日応答して遺産の内容を質問し、約二週間後には協議の場に臨んだという経緯を認定したうえで、次のように述べました。
| このような事情に照らすと、Xは、母Aとの関係を度外視して、その遺産には相応の関心を有していたものというべきである。そして、これら本件建物の価値やXの対応に鑑みると、Xにおいて、Yが上記のような価値を有する本件建物を含め母Aの全ての遺産を取得することに何ら異議を示すことなく容易に応じたものとは考え難い。 |
他方でYは、同じマンションの他の部屋が3500万円で売り出されていることを把握しながら、メッセージでもレジメでも本件建物の価値に言及しておらず、裁判所は、価値を「あえて事前に教示することを避けている」とうかがわれ、「Xに相続を希望しないとの判断をさせるための説明をする動機も推認される」と指摘しました。そのうえで、次のように認定しました。
| 以上に認定、説示をした諸事情を総合すると、Xの上記供述は十分信用することができるというべきであり、そうすると、Xは、Yから、本件建物の価格は1000万円にも満たずにこれを処分しても諸経費を除くとほとんど金が残らないなどと説明を受けてこれを信じたため、Yが母Aの全ての遺産を取得することをその内容とする本件遺産分割協議に合意をしたものと認めることができる。 |
錯誤による取消し
本判決は、次のとおり判断した原判決(要旨)を維持しました。
| Xがした本件遺産分割協議に応ずるとの意思表示はその基礎とした事情についての認識に錯誤があったことに基づくものであり、その表示もされていたから、本件遺産分割協議は錯誤により取り消された |
「基礎とした事情についての認識の錯誤」が民法95条1項2号に、「その表示」が同条2項の要件に、それぞれ対応しています。
Xに重大な過失はあるか
裁判所は、近隣同種物件の売出広告を検索すれば本件建物のおおよその価値を把握することは可能であったと認めつつ、Yがメールでの金額報告を避けていたこと、Yが不動産業務に精通していたことなどから、Xが説明を信じたことは「不自然、不合理であるとはいうことはできない」としたうえで、次のように述べました。
| さらに、そもそもXはYの説明によって錯誤に陥ったところであり、このほか以上に認定、説示をした諸事情によれば、Xが錯誤に陥ったことにつき、重大な過失があるということもできない。 |
以上により控訴は棄却され、遺産分割協議の無効確認と1150万円の損害賠償請求を認容した原判決が維持されました。
まとめ
本判決は、遺産分割協議も錯誤により取り消しうることを前提に、相手方のメッセージやレジメの記載といった客観的資料から虚偽説明の存在を認定し、重大な過失も否定しました。
他の相続人による遺産の評価説明を鵜呑みにせず、署名押印の前に自ら不動産の価値を確認することの重要性と、逆に、把握している価値をあえて伝えずに協議をまとめると、協議自体が取り消され損害賠償責任まで負いかねないことを示す事例として、参考になります。
この記事は、2026年8月29日時点の情報に基づいて書かれています。
この記事の監修者
北村 亮典東京弁護士会所属
慶應義塾大学大学院法務研究科卒業。東京弁護士会所属、大江・田中・大宅法律事務所パートナー。 現在は、建築・不動産取引に関わる紛争解決(借地、賃貸管理、建築トラブル)、不動産が関係する相続問題、個人・法人の倒産処理に注力している。
