老朽化して耐震性等に問題が生じている賃貸ビルの場合、ビルの所有者としては、耐震工事等を行って現状を維持するか、賃借人を全て退去させて建て替えるか、という選択を迫られることとなります。
仮に建て替えるという選択をする場合、入居している賃借人との間での合意解約等の交渉が必要となります(なお、建替期間中だけ一時的に移転をしてもらうという交渉もありますが、いずれにしても従前の賃貸借契約の解消等は必要になる場合が多いです。)。
賃借人との間で、退去に向けて合意解約の交渉が首尾よく進めば問題は無いですが、賃借人が解約に応じない場合は、一般的には期間内解約は不可能なため、契約期間満了時において解約申入れ及び更新拒絶をして、退去を求めるということとなります。
もっとも、この解約申入れ及び更新拒絶には「正当事由」が必要である、というのが借地借家法の規定です。
正当事由があるか否かは、「賃貸人及び賃借人がそれぞれ建物の使用を必要とする事情のほか、賃貸借に関する従前の経過、建物の利用状況及びその現況並びに賃貸人による立退料の支払の申出を考慮して判断すべきものである(借地借家法28条)。」とされています。
この判断について、どのような事情があれば正当事由が認められるか、ということは、ケースバイケースの判断になるため、具体的な裁判の事例を参考にして見通しを立てる必要があります。
そこで、今回は、一つの参考事例として東京地方裁判所平成18年10月12日判決の事例を紹介します。
この事例は、
・築45年以上の鉄筋コンクリート7階建ての賃貸ビル
・老朽化が進んでいたため、建て替えを理由として、賃借人に解約申入れ
・立退料として賃料の12年分(7610万円)の提供を申し出た
・賃借人は、複数のスペースを借りて、飲食店やスキューバーダイビングスクールの店舗として利用していた
という事例です。
裁判所は、結論として、「正当事由は認められない」と判断して、賃貸人側からの明渡しの請求は否定しました。
賃借人側が営業のために使用を継続する必要性が高いこと、賃貸人からの明渡通知の1年前に賃借人が改装工事を行っていたこと、耐震診断の結果の信ぴょう性に疑問があることなどを認定し、立退料の金額について検討するまでもなく、正当事由が否定されました。
賃貸人側にとっては酷な判断結果となっていますが、老朽化ビルについての一つの判断事例として参考となるものです。
この結論を導いた判断の内容は以下になります。
1 賃貸人及び賃借人がそれぞれ建物の使用を必要とする事情について
「賃借人は、スクーバダイビングに関する業務(スクール、ツアーや、これに関係する物品販売等)を行う会社であり、本件各建物を賃借した後、これらを旅行業務のカウンター、ダイビングサロン、レクチャールーム、事務所等に使用していたこと、平成15年1月ころ、賃貸人の承認を受けた上で、本件建物1の改装工事を行い、飲食店の営業を開始したこと、現在は、本件建物1を飲食店として、同2、3及び6をダイビングスクール、サロン及び倉庫として、同4及び5を事務所として使用していることが認められる。また、賃借人の店舗、ダイビングスクール等の移転先の確保が容易であることの立証はない。そうすると、賃借人が本件建物1~3及び6を使用する必要性の程度は高いということができる。」
「これに対し、賃貸人は、本件ビルを取り壊す予定であり、本件建物1~3及び6を使用する必要性がないことは明らかである(本件ビルの建て替えの必要性については、後記(4)で検討する。)。」
2 賃貸借に関する従前の経過について
「賃借人が本件建物1及び2を平成5年に、同3を平成7年に宮川不動産から、同6を平成12年に賃借人から、それぞれ賃借し、その後現在に至るまで営業のために使用していること、平成15年1月ころに本件建物1の改装工事を行い、飲食店の営業を開始したこと、賃貸人が、平成16年8月に賃借人に本件内容証明郵便を送付して、本件建物1~3の明渡しを求めたことは上述のとおりである。
「また、・・・上記改装工事は、工事期間を平成15年1月下旬から2月末までとし、本件建物1の従前の内装を全面的に解体撤去して、軽鉄、木工、左官、防水等の建築工事や、空調、電気、給排水等の設備工事を行うものであり、賃借人は、賃貸人に工事内容を説明し、その承認を受けた上で、施工をしたものであること、〈2〉 賃貸人は、本件内容証明郵便を送付するに当たり、事前に、賃借人を含めた本件ビルの賃借人に対して、本件ビルには老朽化、耐震性等の問題があり、解体撤去する方針であることを説明したり、賃借人の側の要望等を聞いたりすることはなく、唐突に本件内容証明郵便を送付して本件各建物を平成18年10月末までに明け渡すよう求めたこと、〈3〉 その後、賃貸人と賃借人の間で本件各建物の明渡しに関する交渉が進められ、賃貸人が移転先の候補となる物件を賃借人に紹介するなどしたが、賃借人の希望に合致するものはなく、結局、賃貸人と賃借人は本件各建物の明渡しにつき合意に達するに至らなかったことが認められる。」
「賃借人においては、賃貸人が改装を承諾したことから、今後も当分の間(少なくとも改装費用を飲食店の営業利益により回収することのできるまでの間)は、本件建物1~3及び6を使用し続けることができると期待していたと考えられるところである。
そうすると、本件内容証明郵便の送付から明渡期限まで2年余りの期間があることや、賃貸人が賃借人の移転先の紹介に努めたことを考慮しても、賃貸借に関する従前の経過から正当事由の存在を肯定すべき事情を見いだすことは困難と解される。」
3 建物の利用状況及びその現況について
「本件ビルのうち」、被告である賃借人「以外の部分は、すべての賃借人が賃貸人の明渡請求に応じたので、平成18年11月1日以降使用されることはないと認められる。そして、賃貸人は、このような利用状況や、老朽化して多額の補修費用を要するだけでなく、耐震性にも劣るという本件ビルの現況に照らすと、建て替えの必要があると主張するものである。
ア 賃貸人が主張の根拠とする本件調査結果によれば、「要約」の項には、緊急を要する修繕更新事項として、外装につき住戸部外壁の漏水調査及び修繕、スチールサッシュ更新等、内装につき内部建具の窓ガラスの交換、給排水配管更新に伴う内装工事等、電気設備につき1階外部幹線ボックス補修、7階階段照明器具の補修等、衛生設備につき増圧給水方式への変更、衛生配管の更新等が列挙され、緊急を要する修繕更新費及び今後12年間に必要と思われる修繕更新準備費用は概算で2億5740万円であると記載されている。
しかし、調査の方法は、設計図書の確認、現地での目視調査及び施設管理者(東急コミュニティーの従業員)へのインタビューにとどまり、現地調査の時間も2時間半程度である。また、具体的な調査の結果をみると、例えば、〈1〉 地上構造につき、外観からの目視では躯体の詳細状況は確認することができず、特に問題となるような劣化はみられないが、竣工後45年が経過しているので詳細な診断を実施することを推奨する、〈2〉 外壁につき、ほとんどの住戸に外壁からとみられる漏水がある旨を管理者とのインタビューで確認している、〈3〉 スチールサッシュにつき、変退色、発錆がみられ、一部分には母材の欠損もみられるので、早期に更新が必要である、〈4〉 屋上につき、現状では漏水していない旨を管理者とのインタビューで確認しているが、屋上のシート防水は一部分に劣化がみられるので更新が望まれ、3階屋上のシート防水は全般に膨れがみられ、防水層の破断もあるので早急な更新が必要である、〈5〉 1階玄関ホール、各階エレベーターホール、廊下等につき、天井、壁色モルタル吹き付け、床コンクリート打ち放ちとも特に目立った劣化はみられないが、経年劣化により定期的な修繕が必要となる、〈6〉 電気設備につき、1階外部の幹線配管類等は老朽化が顕著で腐食や破損している部分もみられるので、早急に防錆措置を施されたい、〈7〉 給排水衛生設備につき、高架水槽は老朽化が進行しており、受水槽は地下コンクリート製で現行法基準に合致しておらず、衛生上も好ましくないため、3~5年をめどに更新されたい、また、未更新の配管類は老朽化傾向が顕著であり、1~3年をめどに二次診断を実施し、更新されたい、〈8〉 エレベーターにつき、老朽化が顕著であり、予防保全措置として、1~5年をめどに更新されたいといった記載がある程度であって、屋上や外壁の内部に及ぶひび割れ、剥離等が存在すること、コンクリートや鉄骨、鉄筋に劣化がみられることなど本件ビルに差し迫った危険性が生じていることを示す記載はない。
かえって、・・・、雨漏りや水道水の濁り、天井や壁のひび割れ等は生じておらず、賃借人が本件各建物を飲食店、ダイビングスクール等に使用する上での実際上の支障はないと認めることができる。
したがって、本件調査結果は、老朽化に関する賃貸人の主張を客観的に裏付けるものではないというべきである。
イ また、耐震性についてみると、・・・、〈1〉 建物の耐震性を示す指標には、Is(構造耐震指標)、PML(予想最大損失率)等があること、〈2〉 Isは、建物の構造耐震性能を示す指標であり、Isが0.6以上であれば地震の震動及び衝撃により倒壊又は崩壊する危険性が低いが、0.3未満の場合にはその危険性が高いとされること、〈3〉 PMLは、金融、保険等の業界で耐震性能を評価する際によく用いられる災害損失の指標であり、対象施設に対して50年間に10%を超える確率で予想される最大規模の地震が起き、予想される最大の損失が発生した場合における、被災前の状態に復旧するために必要な補修工事費が当該施設の再調達価格に対して占める割合をいうものであって、地震による危険度は、PMLが0~10%で極めて低い(軽微な構造体の被害)、10~20%で低い(局部的な構造体の被害)、20~30%で中位(中破の可能性が高い)、30~60%で高い(大破の可能性が高い)、60%以上で非常に高い(倒壊の可能性が高い)とされること、〈4〉 昭和56年改正後の建築基準法の下での耐震性基準により設計された建物は、PMLが10~20程度であるのが一般的であるが、それ以前の建物は、20以上であることが多いこと、〈5〉 本件ビルは、昭和32年ころの設計であって、上記改正前の基準によるものであること、〈6〉 本件調査結果は、設計図書に基づき、本件ビルの耐震性能を簡易診断手法を用いて概略的に評価した上で、PMLを算定したものであること、〈7〉 本件調査結果による本件ビルのIsは、1階X方向(東西方向)が0.668(評価はA:耐震性に優れている。)、Y方向(南北方向)が0.355(評価はB:どちらともいえない。)、2階X方向が0.576(評価はB)、Y方向が0.301(評価はC:耐震性に疑問あり。)、3階X方向が0.542(評価はB)、Y方向が0.232(評価はC)であったこと(同86~93頁)、〈8〉 本件調査結果によれば、PMLの算定にはIsのうち最も劣る値(本件ビルの場合は3階Y方向の0.232)が用いられるとされており、これにより算定されたPMLは、90%信頼の値で、56.8%であり、本件ビルが中破以上の被害を受ける確率は80%であったことが認められる。
これによれば、本件ビルの耐震性は、昭和56年改正後の基準により設計された建物より劣るということはできる。しかし、金融、保険等の業界で耐震性能を評価する際に用いられるPMLを借地借家法の下での正当事由の有無の判断に供することが適切であるかどうかはともかく、本件調査結果における上記PMLの算定は、設計図書に基づくものであり、いわば机上の計算にとどまること、PMLの算定に当たり、耐震性に優れているとされる1階X方向のIs等を考慮せず、3階Y方向のIsのみを用いることの合理性について何ら立証されていないことに照らすと、本件調査結果により、本件ビルの耐震性に重大な欠陥があり、これを建て替える必要性があると認めることはできない。
ウ したがって、老朽化や耐震性に問題があるので本件ビルを建て替える必要があるとの賃貸人の主張は、これを裏付けるに足りる客観的な証拠に欠けるものであって、直ちに採用することはできないというべきである。」
4 立退料の提供について
「立退料等の金員は、あくまでも、解約申入れ又は更新拒絶に際しての賃貸人の事情と賃借人の事情を比較衡量した結果、建物の明渡しに伴う利害得失を調整するために支払われるものである。すなわち、その比較衡量の結果、正当事由を認めるには必ずしも十分ではないものの、立退料が支払われれば不十分さが補完される場合には、これにより双方の利害得失が調整され、正当事由が具備され得るのに対し、そもそも正当事由を認めるべき事情がなく、又はわずかしか存在しない場合には、立退料による調整は働かず、その支払により正当事由が具備される余地はないと解される。
本件においては、本件建物1~3及び6を使用する必要性は、賃貸人よりも賃借人の側がはるかに高いこと、賃貸借に関する従前の経過に照らしても、正当事由の存在を肯定すべき事情は見いだし難いこと、本件ビルの老朽化や耐震性に関する賃貸人の主張も採用することはできないことは、上述のとおりである。
そうすると、立退料の額の判断に立ち入るまでもなく、立退料の支払により正当事由が補完されるとの賃貸人の主張は失当というべきである。」
5 結論
「以上によれば、賃貸人の解約申入れ及び更新拒絶に正当事由があると認めることができないから、その余の点について判断するまでもなく、本件建物1~3及び6の明渡しを求める賃貸人の請求(本件建物1については主位的請求及び予備的請求)は、いずれも理由がない。」
(建物の概要)
一棟の建物の表示
所在 渋谷区〈住所略〉
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根7階建
床面積 1階 726.64平方メートル
2階 726.64平方メートル
3階 502.01平方メートル
4階 502.01平方メートル
5階 502.01平方メートル
6階 502.01平方メートル
7階 502.01平方メートル
この記事は2020年4月5日時点の情報に基づいて書かれています。
この記事の監修者
北村 亮典東京弁護士会所属
慶應義塾大学大学院法務研究科卒業。東京弁護士会所属、大江・田中・大宅法律事務所パートナー。 現在は、建築・不動産取引に関わる紛争解決(借地、賃貸管理、建築トラブル)、不動産が関係する相続問題、個人・法人の倒産処理に注力している。